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「文人論客 壺中之天」

新宿3丁目 ビフテキ屋あづま

月刊「正論」2019年8月号より掲載

『いつも奥さんと一緒
   音も香ばしい鉄板焼き』

 戦災で焼失した「新宿末廣亭」が再建された昭和二十一年、隣接する「ビフテキ家あづま」も創業した。当時から寄席の控え室のように、芸人が出入りをしていた。しかし、店で奥さんを待たせていたのは三代目、江戸家猫八しかいない。
 出番があるときは、毎日でも名物「じゅうじゅう焼き」(一千円)を食べるのが日課だった。
 焼かれたキャベツと、もち豚を鉄板の上でさらに焼く。特製オニオンソースを回し掛けると、ジューと鳴る。猫八ならば、真似ができそうな香ばしい音である。湯気が一気に立ち上り、熱々を食べたいと五感が刺激する。
 口にすると、意外にあっさりだ。その分、キャベツと肉の甘みを感じ、くせになる味である。

 

(豚肉をフライパンで軽くいため、キャベツともち豚を鉄板の上でさらに焼く)

 亡くなる前、先妻は世話になっていた看護師の奥さんに後を託す。二人の子どもがいた猫八に嫁ぎ、祝辞で「猫に小判」と言われた。
 随一のファンでもあった。動物の鳴き真似を織り交ぜる人情話に客席で笑って泣く。店で「きょうの話よかった」と、ソースをかけ二人で鉄板を見つめていた。
「私たち夫婦もあんなに仲がいい二人はいないよ、ああなりたいねと、いつも話していました」とご主人の中山徳次さんは懐かしむ。

 

(写真左=芸人とは若手の頃からのつき合いという中山徳次さん。 写真右=新宿末廣亭の隣にあり、以前は出前もしていた)

 落語ではないため、トリが取れない猫と揶揄され、落語協会から落語芸術協会に移籍する。
 昭和五十五年五月、末廣亭でも初のトリをとった。客席にだれよりも手を叩く奥さんの姿があった。指には先妻がもらってね、と頼んだ形見の指輪が光っていた。二人の妻が支えた物真似人生だった。

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著者略歴

  1. 将口泰浩

    昭和38(1963)年、福岡県生まれ。明治大学卒業。産経新聞記者を経て、フリーのジャーナリストに。著書に『「冒険ダン吉」になった男 森 小弁』(産経新聞出版)など多数。

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