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「週刊正論」

米映画「バイス」はリベラル派のノスタルジーか

先日、米国のジョージ・W・ブッシュ政権時代に副大統領を務めたディック・チェイニー氏を描いた社会派コメディー映画「バイス」を観ました。民主党支持の人気映画俳優、ブラッド・ピット氏がプロデュースした話題の映画です。ブッシュ政権時代にワシントン特派員だったので、どこまでチェイニー氏をひどく描いているかに興味がありました。

副大統領というと政権のナンバー2ですが、チェイニー氏のリン夫人が「大統領が死ぬことだけを待つつまらない仕事」とまで揶揄したほどのポストです。ところが、映画は、下院議員、大統領首席補佐官、国防長官を歴任しワシントン政界を知り尽くしたチェイニー氏が、ブッシュ大統領を事実上の“お飾り”にし、実権を握りイラク戦争を主導したというストーリーになっています。

案の定、チェイニー批判が中心でしたが、明らかな印象操作もありました。イラク戦争にからむ米中央情報局(CIA)工作員名漏洩事件にからみ、チェイニー氏とその側近が秘密工作員の身分をメディアに流したと描かれていますが、これは事実と違います。

確かに副大統領サイドは、イラク戦争に反対するジョセフ・ウィルソン元駐ガボン大使への報復のため、同氏の妻であるバレリー・プレイム氏がCIAの秘密工作員だったことを明らかにし、プレイム氏を危険にさらしたと、非難されていました。ところが、真相はそうではなかったのです。2003年7月に工作員の名前を最初に報じたコラムニストのロバート・ノバック氏に実名を明かしたのは、知日派で知られるリチャード・アーミテージ元国務副長官でした。

アーミテージ氏はAP通信に対し、漏洩を認めたうえで「故意ではなかったが、ひどい間違いをした」と謝罪しました。プレイム氏が秘密工作員だとは知らなかったと弁明しましたが、ノバック氏のほかにも著名なジャーナリストであるボブ・ウッドワード氏にも彼女の身元を明らかにしていたそうです。

アーミテージ氏のことを日本政府やマスコミは日米関係のために尽力してくれる存在としてありがたがっていますが、実像は異なります。米紙ウォールストリート・ジャーナルは「自分が秘密を明かし、そのことの嫌疑を同僚たちが受けているのに平然としていた罪は重い」とアーミテージ氏を非難しましたが、その通りだと思います。

映画を観終わって、なぜこのタイミングですでに政権を座を去って10年も経っているチェイニー氏を取り上げたのかと、今日的意義を考えてみました。

リベラル派が多数のハリウッドで目下の「敵」はトランプ政権です。オバマ政権下で国務副長官を務めたアントニー・ブリンケン氏は米紙ニューヨーク・タイムズへの寄稿で、トランプ政権を「No People, No Process, No Policy(人材もおらず、政策遂行のプロセスもなく、政策もない)と指摘しました。裏返せば攻撃の対象が定まらないのです。対照的にブッシュ政権下では、チェイニー副大統領という「政界のダースベイダー」がおり、ブッシュ大統領の無能ぶりをこき下ろすことができました。リベラル派にとって、チェイニー氏は思い切り叩けるというノスタルジーを感じる相手だったのでしょう。

映画にも登場するFOXテレビや保守系のシンクタンク「ヘリテージ財団」はトランプ政権下でも大きな影響力を持っています。チェイニー氏を描くことで、FOXテレビなどとの結びつきを印象付け、2020年の大統領選に向けて変革が必要だとのメッセージを打ち出そうとしているのではないかと思いました。

ただ、映画ではチェイニー氏のことを徹底的には批判していません。次女であるメアリーさんが同性愛者であることを告白する場面が出てきます。保守派の政治家にとって同性婚禁止は、銃規制反対、妊娠中絶と並んで「リトマス試験紙」と言われています。チェイニー氏にとって打撃でしたが、夫妻は娘を守りました。映画でもイラク戦争などで厳しくチェイニー氏を批判しても、この問題ではチェイニー家の側に立っています。

映画の題名の「バイス(VICE)」は副大統領(Vice President)からとったものですが、「邪悪」「悪徳」などの意味もかけたのでしょう。それでも徹頭徹尾チェイニー氏を批判できないところにリベラル派の迷いが見えたような気がしました

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著者略歴

  1. 有元隆志

    ありもと・たかし 産経新聞社正論調査室長兼月刊「正論」発行人。1989年産経新聞社入社。政治部で首相官邸、自民党、外務省などを担当。2005年7月からワシントン特派員。13年10月政治部長、16年10月編集局総務、18年7月から現職

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