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「月刊正論」

三井美奈「東京裁判日記 レーリンクが見た戦後」①

「まるで映画の主人公になったような気分だ」
「だが、自分に大役が務まるだろうか」
 73年前、1946年の春、期待と不安でいっぱいの若い、長身のオランダ人裁判官が、極東国際軍事裁判(東京裁判)の11人の判事団の1人として、日本にやってきた。ベルト・レーリンク(1906~85年)という。
「25被告、全員有罪」の判決は、昭和、平成を経て令和になった今も日本人の苦い記憶として残る。レーリンクは、判事団の多数派によるこの判決に流されず、インド人のラダ・ビノード・パル判事らと並んで反対意見を唱えた。
 筆者はこのほど、レーリンクが2年9カ月の東京滞在で綴った日記と約70通の書簡を読む機会を得た。原文はひどいくせ字で研究者泣かせだったが、自身の父親の研究家でもある3男のヒューホ・レーリンクさん(74)が活字化してくれた。今回から複数回にわたって、正論読者にお届けするのは、その抄訳である。全容の公開は初めてとなる。
 日記と書簡は、東京裁判の内実に迫る第一級資料である。私たち日本人について「当初は偏見があった」(ヒューホさん)というレーリンクが、次第に日本と日本人に寄り添っていく記述が特に胸を打つ。レーリンクは戦時中、オランダを占領したナチス・ドイツを憎悪した。東京に来るまで、日本はナチスと結託した「敵国」でしかなかった。
 また、「戦争犯罪とは何か」についての徹底した思考は、大量虐殺や弾圧の抑止を目指す現在の国際法廷に通じる現代性を持つ。東京裁判と言えば、「勝者の裁判」という反発は強いが、レーリンクは「平和に対する罪」(侵略罪)は事後法だと考え、広田弘毅元首相、重光葵元外相ら5人の無罪を主張した。
「東京裁判憲章(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に反しない場合にのみ、拘束力を持ちます。この裁判を将来、勝者が都合よく法を作れるような国際法の前例にしてはいけません」。オランダ政府宛ての手紙に、レーリンクはこう書いた。米英連合国に同調を求める政府に、あえて「正論」で抗したのだ。
 抄訳を通し、彼の勇気と観察者としての視点、さらに東京を舞台とする人間ドラマに触れていただければ、望外の幸せである。

驚きと喜びの判事抜擢

 レーリンクが東京裁判の判事として指名を受けたのは1946年1月だった。日記には、家族全員の驚きと喜びが書かれている。
「1月12日 新たな名誉を授かった。映画の主人公になったようだ。4年半のドンブルフ暮らしでは、なすべきことができなかった。海岸や砂丘を歩いて過ごし、法研究とは関係なく、個人的に興味があることについて本を書いて、幸せにやっていた。しかし、なんということか! ユトレヒトに判事として招かれ、それだけでは終わらなかった。午後1時ごろ、ザイリンク教授に呼ばれた。教授は外務省の意向だとして、私に国際軍事法廷の裁判官として東京に赴任するように言った。家族はみんな興奮した。ウィーク(長男、当時9歳)は泣き出し、リース(妻)は私と共に東京に行きたがった。私は自分に何が起きるのか、よく分からない」
 当時、39歳。ドンブルフは、レーリンク一家が戦時中に住んだオランダ・ゼーラント州の海岸街の名だ。レーリンクは同州のミデルブルフ地裁判事を務めており、戦後、ユトレヒト地裁に復職したばかりだった。妻リースと5人の子どもの7人家族。国際法の専門家ではなかった。
 オランダ政府はなぜ、若い地裁判事を歴史的裁判に送り込んだのか。それには事情がある。
 1945年10月、極東国際軍事裁判に向け、米国務省は連合8カ国に要員派遣を要請した。この8カ国は、英国、中国、ソ連、オーストラリア、オランダ、カナダ、フランス、ニュージーランドである。戦時中、ナチスに占領されたオランダでは、亡命政府がロンドンから戻り、内政再建とナチス協力者の裁判に追われている最中だった。大急ぎで東京に送る人選を迫られた。
 当初は蘭領東インド(現インドネシア)の法曹関係者が検討されたが、高齢や健康上の理由で辞退者が続出した。ニュルンベルク裁判に比べ、東京裁判は国内であまり注目を集めていなかったし、英語の裁判への不安もあったのだろう。日記に出てくるヨハネス・フィリップ・ザイリンク教授はユトレヒト大の法学教授だ。自身は断る代わりに、同大で東インド刑法を教えていた若い同僚を推薦したらしい。レーリンクは戦時中、ナチスに刃向い、ユトレヒト地裁から片田舎のミデルブルフに左遷された。そんな経歴も好都合だったようだ。
 レーリンクは趣味で、シェイクスピア戯曲マクベスの研究をしていたが、英会話の経験はほとんど無かった。日記に「私はほかの判事と連絡をとる勇気がない。言葉に不自由するからだ。改善するだろうか」と不安を記している。
 東京出発前に、ナチス戦犯を裁くニュルンベルク法廷を視察した。
「1月31日~2月8日 ニュルンベルク。証言に立つコース・フォリンク(ナチスに拘留されたオランダ人左派活動家)に同行。…アルトゥール・インクバルト(占領地オランダの民政長官。後に絞首刑)ら被告の弁護団と長く話をした。ドイツ人は悪者とは思わないが、致命的な特性がある。自分自身が分かっていない。外部の規律に従って人生の価値が形作られ、内面に不安を抱えているからだろう」
 ナチスとドイツ人に対する憎しみは強かった。一家が住んだドンブルフは1944年、連合軍とナチスの激戦の舞台となった。日記には「あの時は我が家が燃え上がり、教会まで広がった」とあった。ドイツへの憎しみは、日本にも向けられていた。

3週間かけて東京へ

 東京への出発は2月11日だ。オランダ南部マーストリヒトに近い軍用空港から、まずロンドンに飛び立った。妻子を残しての単身赴任である。
「2月10日 自分の部屋で最後の時を過ごし、みんなでストーブの周りに座って別れを告げた。子供たちよ、さようなら。彼らはよく分からないし、私もよく分からない。私がどんなに彼らを愛していることか。オランダに帰ってこられないのではないかと考える時もある。子供たちは父親について、何を覚えていてくれるだろうか」
 ロンドンからスコットランド、アイスランドのレイキャビク、カナダのモントリオール、米ワシントン、ハワイ、グアムを経由して、東京まで飛行機を乗り継ぐ3週間の旅だった。
 ロンドンから妻にあてて手紙を書いた。家族との別れに、感傷的になった。
「2月11日、ロンドンより。リーシェ(妻リースの愛称)、外国から初めて手紙を書くよ。小さな部屋で、文具もない。明日朝、米国の大佐と会って、11時45分にスコットランドに旅立つ。…別れは悲しかったよね。10時には古い爆撃機で出発し、私は外を見る機会がほとんどなかった。着陸時はハラハラした。…お前はずいぶん泣いたのだろうか。さよならを言うときは、混乱していたよね。でも短期間のことだ。よく食べて、よく寝て、(東京に会いに来る)旅に備えて欲しい」
「2月13日 スコットランド プレストウィック空港ターミナル。やあ、リーシェ。昨夜の便はキャンセルになり、よい知らせを待っている。モントリオールまで爆撃機のような飛行機で行く。旅の準備でレクチャーを受けた。1万フィート上空に行く時に使う酸素ボンベで、ガスマスクみたいなものの扱いだ。使わなくて済むとよいが」
 ワシントンでは米国の豊かさに驚いた。占領軍に驚いた日本人とあまり変わらなかった。妻にこう書き送った。
「2月20日 リーシェ、最後の手紙はいつ書いたっけ? 今は国務省の呼び出しを待っている。米国の暮らしは、変わっている。みんな自転車を持たず、道路は車がびっしりだ。(女性は)爪や唇を塗りたくっている。2歳位の女の子まで、爪を赤く塗っていた。タクシー運転手は常に歌い、冗談を飛ばしている。女の子たちは茶目っ気があり、生き生きと輝いている。…洋服を買うことができないので、どうしようかと思っている。君が、私の配給切符でシャツを買ってくれればいい。多少金がかかっても、ここより安い」
 朝食にハムエッグ、トースト、コーヒーが出てくる米国は別世界だった。オランダは戦時中の1944年、ナチスによる港の封鎖に寒波が重なり、饑餓が深刻化した。国民はチューリップの球根まで食べたほどで、約2万人が死亡した。
「2月21日 午前、国防総省で天然痘、チフス、コレラなど4種の予防注射を受ける。米国とカナダから来た同僚のヒギンズ、マクドゥガル、司法長官らと昼食をとる。報道カメラマンがいた。午後、(オランダ)大使館にあいさつに行った」
 米国判事ジョン・パトリック・ヒギンズ、カナダ判事エドワード・スチュアート・マクドゥガルと合流したようだ。ここで、判事団について説明しておこう。
 東京裁判には、日本が戦争捕虜を抑留した米国のほか、英、ソ連、オランダなど連合8カ国、さらにインド、フィリピンの2カ国の計11カ国がそれぞれ判事1人を送った。マッカーサー元帥が裁判長に任命したウィリアム・ウェッブ卿は、オーストラリアの高等裁判所判事だった。ヒギンズは元マサチューセッツ州選出の元下院議員で、同州上位裁判事を務めていた。マクドゥガルはケベック州高裁判事だった。レーリンクは年齢や肩書きで、少々引け目を感じていたようだ。ワシントンで日記に、「やっかいなのは貫禄ある人たちの視線だ。カナダの判事は60歳(実際は59歳)で米国の判事もその位。彼は司法省の長い廊下を一緒に手を組んで歩いてくれる気さくな人だが、善意でやってくれているのかもしれない」(2月21日、妻あての手紙)と書いている。
 裁判のあり方をめぐり、米国判事ヒギンズとのズレは当時から感じていた。「日本への懲罰」を裁判に求めるヒギンズへの違和感を旅の途中で記している。
「米国判事ヒギンズは今朝、有罪判決は完全勝利の結果だという意見を述べた。相手(日本人)が勝っていれば、同じこと(戦犯裁判)をしただろうと信じている。司法は平等ということか? ここで疑問がわく。『敗戦は犯罪であるか』ということだ。私はそうは思わない。私は『勝者の力こそ正義』という法廷には、協力を拒否する」(2月27日の日記)。

つづく…

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著者略歴

  1. 三井美奈

    昭和四十二年生まれ。一橋大学卒。読売新聞エルサレム支局長、パリ支局長などを歴任。平成二十八年、産経新聞に入社。著書に『イスラム化するヨーロッパ』(新潮新書)など。

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