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江崎道朗の「複眼思考」

江崎道朗氏 「ミュンヘン協定」に学ぶ、和平合意が戦争に至る道

戦争回避のための和平合意が結果的に戦争をもたらすことがある。

有名な事例が、第二次世界大戦直前のミュンヘン協定だ。

ナチス・ドイツ率いるヒトラーは、英仏両国に対しては柔軟な外交政策をとる一方で、近隣諸国のドイツ人を保護する政策をとっていた。

その一環として、300万人ものドイツ系が住むチェコスロバキアのズデーテン地方に対する干渉を強め、1938年4月には、チェコ国境周辺に軍隊を集結させた。

ヒトラーのこの動きに反発したチェコスロバキアも予備役を召集、軍事紛争に発展しかねない情勢になった。

イギリスやフランスも軍の動員を決定し、戦争は不可避かに見えたが、ヒトラーは突如として和平会談を提案する。

1938年9月29日、英仏とドイツ、チェコスロバキアの四首脳がミュンヘンに集まり、ミュンヘン協定が結ばれた。戦争を回避するため、ズデーテン地方の大半をドイツに割譲すると共に、ドイツはチェコスロバキアの独立を保証することが約束された。

イギリスのチェンバレン首相は「世紀の平和維持協定が成った」と声明を発表した。フランスでも国民から熱狂的な支持を受けた。

だが、後に首相になるウィンストン・チャーチルは、ドイツの侵略を防ぐ防衛力をイギリスは持っておらず、国際的な安全保障体制もできていない中でヒトラーと協定を結んだことは間違っているとして、チェンバレン首相を厳しく批判した。

戦争が回避され、平和が訪れた。世界の誰もがそう思った僅か半年後の1939年3月15日、ヒトラーはチェコスロバキアを侵攻したが、イギリスもフランスも口頭で抗議するだけであった。ヒトラーの侵略を阻止する軍事力を持っていなかったからだ。

それから半年後の1939年9月1日、ヒトラーはポーランドへの侵攻を開始した。ミュンヘン協定で平和が訪れたと喜んだ僅か1年後に第二次世界大戦が始まったわけだ(以上、ハーバート・フーバー著『裏切られた自由【上】』を参考にした)。

軍拡を進めるヒトラーを、軍事力の裏付けもないまま外交だけで阻止しようとしたことがそもそも間違いであったのだ。

さて、6月12日の米朝首脳会談だ。歴史的な会談によって戦争は回避されたと、日本のマスコミの多くが喜んだが、歴史を知らないと、かくも能天気になれるものなのか。

北朝鮮の約束があてにならないことは有名だ。何しろ1991年から実に27年間の間に5回、北朝鮮は非核化を約束しながら、約束を破ってきたのだ。

昨年の秋、1994年に北朝鮮の核施設攻撃の立案に関与した米軍の元情報将校と会った。彼は三つのことを強調した。

第一に1994年の時点で、下手な妥協をせずに核施設を攻撃しておけば、ここまで事態はこじれなかった。ミュンヘン協定の失敗に学ばないアメリカ国務省に任せている限り、北朝鮮の核開発を阻止することはできない。

第二に、この20年間、北朝鮮と交渉を続け、アメリカだけでなく、韓国も日本も北朝鮮に反撃をしてこなかったので、北朝鮮は核兵器を保持しても報復してこないと判断している。

第三に、クリントン民主党政権以降、アメリカの国防費は削減路線になったため、米軍の力は徐々に衰えていくことになった。まずは、国防費を増やして北朝鮮を全面空爆できる体制を構築することが重要だ。

つまり、北朝鮮を全面空爆できる攻撃体制を整え、実際に攻撃できる実力を持たない限り、北朝鮮の核開発は阻止できないと判断しているわけだ。

実際にトランプ政権は昨年、国防費を62兆円から69兆円へと約7兆円も増額し、北朝鮮空爆の拠点グアムに戦略爆撃機を揃えた。しかも地下の軍事基地も破壊できる特殊な爆弾も次々と増産し、ある程度の空爆体制が整ったのは昨年末だと聞く。

7兆円も国防費を増額したトランプは本気で攻撃を仕掛けてくると思ったのだろう。金正恩の申し出によって米朝首脳会談が開催されたが、その会議でトランプは北朝鮮に譲歩し過ぎたという批判が出た。

確かにマスコミは《アメリカ「体制保証」北朝鮮「完全な非核化」》(NHK)、《米朝首脳、非核化と北朝鮮の体制保障で合意》(ロイター)という見出しにつけ、あたかもトランプが金正恩体制を保証したかのような印象を振り撒いた。

だが、共同声明にはこう記されている。

「トランプ大統領は北朝鮮に対して安全の保証を提供することにコミットし、金正恩委員長は、朝鮮半島の完全な非核化に向けた自身の確固たる、揺るぎないコミットメントを再確認した」(外務省仮訳)

この声明によれば、トランプ政権が提供するのは、security guarantees(安全の保証)であって「体制の保証」ではない。そしてトランプは、北朝鮮に対する「経済支援」も「経済制裁の解除」も約束していない。軍事攻撃をされたくなければ、北朝鮮は速やかに非核化の作業を完了させよと言っているに過ぎない。

ただし、問題がなかったわけではない。米朝首脳会談後の会見などでトランプ大統領もポンペオ国務長官も、非核化には2年ぐらいかかるとの認識を示した。非核化のモデルと呼ばれるリビア方式では、大量破壊兵器の放棄を合意してから僅か4カ月程度で作業が終了している。北朝鮮による時間稼ぎを容認したトランプらの判断は間違いだ。

しかも帰国後にトランプ大統領は、既に北朝鮮の核開発問題は解決したかのような発言を繰り返し、その関心は、イランの核開発と中国との貿易戦争、そしてロシアとNATOの関係に向いてしまっている。

何しろイランの核問題がこじれると軍事紛争に発展しかねず、米軍は中東に戦力を振り向けなければならない。米軍がもはや二正面作戦をとれない以上、中東で紛争が起これば、北朝鮮とその背後にいる中国に対する軍事的圧力は弱まることになる。

こうした米軍の弱点とトランプ大統領の移り気を理解しているからだろう。7月6日、訪朝したポンペオ国務長官に対して北朝鮮は「北朝鮮の忍耐力が尽きて、米国の強盗的思考を反映した要求を受け入れると米国が思っているならば、それは致命的な間違いだ」と非難し、迅速な非核化を拒否した。どうせ米軍は攻撃してこないと、完全に足元を見られてしまっているかのようにみえる。

このままだとトランプ大統領は、ミュンヘン協定をまとめたイギリスのチェンバレン首相と同じ失敗を繰り返した無能な指導者だと非難されることになろう。

その反発から、トランプが北朝鮮への空爆を決断する可能性も否定できないが、そうなれば火事場泥棒のように中国が台湾や尖閣諸島に対して何らかの軍事行動を起こすことも想定される。尖閣諸島や台湾をめぐる軍事的緊張が高まっているのも、こうした理由からだ。

その一方で、トランプ政権からすれば、イランの核問題を放置するわけにもいかない以上、北朝鮮の核問題を後回しにする恐れもある。そうなれば、北朝鮮の核開発は進み、日本に対するミサイル・核攻撃の危険は高まっていくことになる。

しかもそう遠くないうちに韓国が日本に牙を向いてくるだろう。そうなれば防衛ラインが対馬海峡となり、日本海の海運ルートは大きく打撃を受けることになる。北方領土の軍事基地化を進めるロシアの動向も気がかりだ。

このように北朝鮮がどうなるにせよ、日本を取り巻く国際情勢は確実に悪化していくことになる。それに対する我が国の防衛体制はと言えば、敵基地反撃が合憲であるにもかかわらず、北朝鮮から攻撃されても反撃する力を持っていない。中国による尖閣諸島への不法上陸も単独で阻止できない。北朝鮮有事と南西諸島防衛を同時に対応できる兵力もない。憲法九条で許された専守防衛さえまともにできない有様なのだ。

第2次安倍政権になって防衛体制の強化が進んでいるものの、肝心の防衛予算をほとんど増やしていないため、その効果も限定的だ。

予算は国家の意思なのだ。まずは防衛費をせめて先進国平均のGDP比2%、つまり倍増するよう政府に求めていこうではないか。憲法9条では日本を守れないのと同じように、予算の裏付けのない防衛政策では日本を守ることはできないのだ。

 (平成30年7月11日)

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