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岩田温の「稽古照今」

岩田温氏 「8月に思う」

昭和十七年十月、ガダルカナル島の米軍飛行場を奪取せんと日本陸軍は総攻撃を仕掛けた。

これに呼応する形で、連合艦隊は米軍と「南太平洋海戦」に突入することになる。

ガダルカナル島を巡っては、日本陸軍は絶望的な闘いを展開していた。

十月の総攻撃でも戦果を全く挙げることは出来ず、徒に戦力は消耗され、死傷者は増加の一途をたどった。

ガダルカナル島での日本軍の戦いは、苛烈を極めており、それは大東亜戦争緒戦の日本軍の優位が転換しつつあることの表徴でもあった。

十月二十六日の南太平洋海戦が行われる四日前、一人の若い主計大尉が戦死した。

名前を小泉信吉という。

小泉信吉の父は慶応大学塾長を務め、後年、今上陛下の東宮御教育常時参与を務めた経済学者、小泉信三である。

小泉信三は戦死した息子を偲び、息子の思い出、戦時中の書簡をまとめて『海軍主計大尉小泉信吉』と題した本を出版した。

八月が来るたびに、先の大東亜戦争について報じられることが多くなるが、戦争に突入した当時の人々の気持ち、戦に行かねばならぬ息子、送り出さねばならぬ親子の気持ちといった、あの時代に生きた人々の息遣いが聞こえてくるような報道はほとんど耳にしない。


「戦争は全て間違っている。何があっても戦争はしてはならない」

「何故、負けると分かっていた戦争に突入したのか」

「何故、負けるような稚拙で愚かな戦術を取ったのか」


あらゆる戦争を間違っているという立場は、思想や哲学的立場として成立しないわけではない。

それは大きな覚悟を伴う思想といってもよいだろう。

何故なら、非戦という立場を貫徹すれば、敵が侵略戦争を仕掛け、領土内に攻め込んできても立ち上がってはならないというのだから、尊厳を侵され、奴隷的状況に追いやられても仕方ないと諦めるのだから、常人の発想ではない。

負けると分かっていた戦争を決断した愚かしさ、戦術的稚拙さへの反省。

こうした反省が無意味だとは思わないし、分析してみることは重要だとも思う。

だが、それでも、ここには何か既に結果を知った者が結果を知らなかった者を裁くいかがわしさのようなものを感じざるをえない自分がいる。

この手の議論を好む人が存在することは否定しないが、自分自身が積極的にこうした議論に参加しようとは思わない。

最も大切なのは、当時を生きた人々が何を感じ、どのように生きたのかということだ。

ことが終わり、結果がわかってから反省するのは容易いことで、賢しらぶった結果論は聞きたくない。

私が知りたいのは、将来がまるで見えない状況において、いかに感じ、いかに考え、いかに行動したのかということなのだ。

『海軍主計大尉小泉信吉』は、父と息子、そして母と子、兄と妹との間の手紙のやり取りが忠実に再現されている。

本書が何よりも貴重だと思われるのが、戦死した信吉の手紙が全然武張ったものではない点だ。

勇ましく悲憤慷慨するような手紙はなく、まるで海外旅行にでも訪れたかのような静かな手紙ばかりなのである。

出征して一番初めに届いた手紙はこうだ。


「無事に当地に到着しました。
空は飽くまで青く、水も青く、すべてが明るく美しい土地です。
しかし遠い土地に来たという感じは余り起らず。
何か海岸に避暑にでも来ているといった感じがしています。 
機上から見た島々の周囲は、輪状に珊瑚礁が取りまき、そこに白波が立っています」

戦地から届いた手紙であることを伝えなければ、海外に出張した若者の手紙という印象を受けるのではないだろうか。

何故、彼がここまで淡々とした心境であったのか興味深い。

具体的な作戦について書くのは問題があったのだろうが、悲壮感がまるでない文章を送っている信吉の心の動きが気になってくる。

最後に家族に送った手紙も面白おかしい手紙であり、とても戦地からの手紙とは思えない。

艦(ふね)の機関長が大きな魚を釣り上げ、「鯛だ」と主張したが、どうも「鯛」そのものではない様子である。

皆は「鯛みたいな奴」と呼んでいたのだが、猫がその魚の腸を食べてしまった様子である。

皆が猫の噂を始める。


「そういえば昨夜は猫の奴ただじゃあない声を出して狂い廻って居たぜ」
「うんそうそう、俺は眠れなくなったよ、変な鳴声だったなあ」


猫を飼っていた軍医長、厳かに曰く、「猫はシビレちゃって、涎を流して俺の部屋にいるよ」

やはり「鯛みたいな奴」は危険なのではないか云々を話し、その猫の様子を眺めにいく。

以下、手紙から信吉の文章である。


「シビレた御本猫(人?)は苦しいのだろうと思いますが、見て居ると相当笑えます。
小生の如き、この事件を最も楽しんだ一人でしょう。
随分笑いました」


ユーモア溢れる筆致で描かれたこの手紙が、戦死する直前の手紙とは到底思えないのだが、実際に、この手紙をしたためた数日後、信吉は戦死した。

十一月十三日、世の明け方、父・信三は信吉の夢を見た。

襟章のついた紺の軍服を着て、軍服の袖をたくし上げると、両腕が真っ黒になっていた。

同じ日の朝、母も信吉の夢をみた。

直接夢に信吉が現れたのではなく、小泉家の女中が母に信吉戦死の知らせを告げた夢をみたのだという。

それから四日後に、信吉戦死の電報が届いた。

信吉からの手紙には悲壮な決意を示すような文章はなかったことは既に記した。

何故かを考える際、重要だと思われるのが、出征に際して、父・信三が信吉にしたためた手紙である。


「君の出征に臨んで言って置く。
吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。
僕は若し生れ替って妻を択べといわれたなら、幾度でも君のお母様を択ぶ。
同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。
人の子として両親にこう言わせるより以上の孝行はない。

…(略)…

吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた。
親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。

…(略)…

今、国の存亡を賭して戦う日は来た。
君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。
二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥しくない、悔ゆるところなき立派な生活である。
お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。
お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。」


この手紙を信吉に渡す前、信三は妻に見せ、信吉に渡すか否かを相談した。

手紙を一読した妻は、涙を流したが、やはり渡した方がいいといったという。

息子は祖国の命運のかかったこの戦で散ることは覚悟の上での出征であったことは想像に難くない。

このとき気がかりなのは、父、母、そして妹のことであったに違いない。

「必ず死なずに帰ってこい」と思うのも親心かもしれないが、最愛の息子へ感謝の言葉を述べ、勇ましく戦ってこいと送り出すのもまた親心であろう。

こうして悲壮な決意で送り出してくれた両親に対し、今更ながら悲壮な覚悟など伝えても仕方のないことであり、あくまで信吉らしく飄々と生きていたことを伝えたいと考えたのが信吉ではなかったか。

子が親を、親が子を愛する気持ちが切々と伝わってくる本書は、まさに時代の息遣いを伝えてくれる一冊だ。

編集者の和木清三郎の文庫版のあとがきによれば、生前、小泉信三は本書の覆刻を拒み続けたという。


「あの本を出すのは、また、あの本を読まなくてはならぬ。
僕にはそれはとても悲しいことなんだ」

(平成30年8月22日)

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