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三浦小太郎の「右であれ左であれ我が祖国」

三浦小太郎氏 今こそ読まれるべき水島新司「銭っ子」

漫画家、水島新司の「ドカベン」が、今年6月28日発売の少年チャンピオンでついに最終回を迎えた。

しかし、昭和47(1972)年から始まったこの人気野球漫画の閉幕はかなり話題になったのだが、水島ファンには今更言うまでもないことだが、この漫画は「ドカベン」として途切れずに連載されてきたわけではない。

「第一期ドカベン」は、昭和56(1981)年時点では一度最終回を迎えている。

その後、新たな甲子園の舞台やプロ野球界など、何度も装いを変えて再開され、水島の他の野球漫画の主人公たちも続々「ドカベン」の舞台に参戦し、ある種の「水島オールスター漫画」として読者を引き付けてきた。

しかし、「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」と言った野球漫画だけで水島新司が語られるのは、一ファンとして誠に残念である。

水島は、上方喜劇の劇作家、また「細腕繁盛記」「あかんたれ」などのテレビ番組の放送作家として、60~70年代大活躍した花登筐を原作者として「エースの条件」そして「銭っ子」という二作品を生み出しているが、この二作は、花登と水島双方の最も良質な部分が結合した作品であり、今もなお全く魅力を失っていない傑作だ。

作者の生涯や体験と、そのまま作品を結びつけるべきではないが、水島の実家が父の博打などで倒産し、中学を卒業後は水産問屋に就職、厳しい仕事に堪えながら漫画家を目指した経験は、彼の作風に大きな影響を与えており、それが最も率直に表れたのがこの二作品なのだ。

昭和44(1969)年に連載が始まった「エースの条件」は、長屋に住む貧しい高校生の主人公が、父親が獄中にいることからの差別に堪えながら、野球部のエースを目指す姿を中心に、ブルジョアで権力を振りかざすライバル一家との闘い、貧しい人たちの中にも存在する差別意識などが丁寧に描かれる、社会派的な要素の強い作品だった。

ラストシーンでは、主人公は力投するものの敗れるが、その終わり方も、どこかニューシネマの映画のような、乾いた叙情性が感じられる不思議な余韻を残す作品となった。

さらに深い感動を呼ぶ作品は「銭っ子」である。

昭和47(1972)年に少年サンデーで連載されたこの作品には、野球もスポーツも一切出てこない。

主人公は、もともと大資産家の子供であった中馬健とその妹亜子。

しかし、両親が交通事故で世を去り、財産は強欲な親戚に奪われ、二人も叔父の家に引き取られるが、まるで奴隷のごとく扱われる。

とうとう二人は海に飛び込んで自殺を図るが、貧しくても親切な船長やその友人たちに助けられる。

しかし、主人公の健は、親切な船長が大けがをしても、お金がないためにろくに治療も受けられない現実にショックを受ける。

自分を助けてくれた親切な人たちは皆社会の底辺で苦しみ、父や母の財産を横取りした叔父たちのような、ずる賢い悪人が利益を得ているこの社会に対し、健は幼いなりの「宣戦布告」を行い、お金をもうけ、力をつけるために一人旅立つ決意をする。

「まともなことをしていてはお金はもてない。

正直な人間はみんな貧乏なんだ。」

「正直者が貧乏して損をする世の中で、金持ちだけがいい思いをしている。

だから、金を持たなきゃいけないんだ。」

健は、元手なしにお金を得るには乞食しかないと、道路に座ってお金をもらおうとするが、近くにいた乞食から「誰がそんな乞食に金をくれるか」と笑われてしまう。

しかし、金を稼ぐまでは帰る場所もない、と覚悟を語る健に、その乞食は健を自宅に連れて行く。

この乞食は実は大富豪で、一方では株で大儲けをしてベンツを乗り回し、同時に日々乞食をして小銭を稼ぐとともに、金儲けの情報を町で集めるという人物だった。

彼はまず健を高級レストランに連れて行くが、自分はスーツを着て食事をし、乞食のなりをした健にはその残飯を与えて、まず最初の「乞食哲学」を披露する。

「お前はトクをしたぞ。わしはこんな服を着たばっかりに、高い金を出して飯を食った。

お前はぼろを着ているから、飯でもタダで食べた。

残飯でも、わしの食ったものと同じじゃ。肝に銘じておけ。それが乞食のいいところじゃい。」

底辺の視点から世界を見て、その間隙をぬってお金を儲ける徹底した姿勢を、健は「銭の神様」「銭神」と呼び、彼から株をはじめ、金儲けのやり方を学んでいく。

経験を積んで、強欲な金儲けの世界、人の弱点を突いて交渉を進める技術を会得した健は、最後には銭神をも騙して大金をつかみ、かって世話になった船長のもとに戻っていく。

しかし、船長は病ですでに死の床にあった。

健は持ち帰った大金で、妹と、かって自分を救ってくれた人たちを豪華なマンションに住まわせる。

しかし、親切だった貧しい人たちは、大金とぜいたくな生活の中で、一気に強欲で自堕落な人間になっていく。

原作者花登は、その変貌を金による堕落とは言わない。

「もともと性格がそうなのであった。それが現れたに過ぎないのだった」

そして水島の画力も、ちょっとした表情や視線(健に視線を正面から合わせなくなる)などでその変貌を描き出している。

健自身、幸運も味方して得たある種の「バブル」にすぎなかった自分の成功におぼれ、原野商法に引っかかってその財産を失う。

その後、健と亜子の兄妹は、団地の不用品の物々交換にはじまり、ある種のリサイクル店を経営するが、かつて自分たちを苛め抜いた叔父が経営する安売りスーパーと対決することになる。

ここで述べた「原野商法」「バブル」「リサイクル店」などの言葉自体は、70年代初頭のこの漫画にはもちろん登場しない。

しかし、本質はこれらの言葉が表すものと変わらぬ姿が描かれる。

安売りスーパーのおとり商法(例えば肉製品を特売品とし、関連商品の売り上げを伸ばす)が、地元の商店街を潰す構図も、登場人物のセリフによって的確に語られている。

「あの人(町の肉屋)はあの人なりに自分の店の生活があるのでしょう。

(スーパーが)出血までして、それじゃサービスじゃなくておとりじゃないの。

ここはスーパーだからいいけど、その日の売り上げて生活しているお店ならすぐつぶれるわ。

可哀そうなのよ、肉屋さんや、近くの商店の人たちが」

大店法以前の時代に、このような視点がきちんと漫画で示されていたのは、花登や水島が、生活者としての視点から、この高度経済成長の時代を正確に見つめていたからだ。

結局、健の店はスーパーとの競争に敗れて倒産する。

最後の打撃は叔父の汚い謀略だったが、資本金を持つスーパーに個人商店がダンピング競争で勝てるわけはなかったのだ。

健も妹の亜子もすべてを失い、しかも亜子は病に倒れる。

しかし、健の心は、逆にすべてを失って以後、少しずつ純粋さを取り戻していく。

金をあこぎな手段で儲けることの恐ろしさ、金自身ではなく、そのもうける手段こそが人間性を破壊することに気づいた健は「銭神」との衝撃的な再会を迎える。

銭神が健に最後の「乞食哲学」を伝えた後、ストーリーは急展開、感動的なラストシーンを迎える。

このラストシーンでの健の表情の一コマ一コマの変化は、彼の人間性の本質的な回復を、何の押しつけがましさもなく描き切っており、一度読んだものには忘れられない。

本作は、あえて言えばバブル経済の時代からデフレの現在に至る社会風景を預言するかのような作品であり、同時に挫折から立ち上がる時に、個人と社会にとって最も必要なものは何かと言う本質的な問題に触れている。

残念なことに、「エースの条件」も「銭っ子」も、現在では古書でも入手は難しく、特に「銭っ子」は、アマゾンなどでも1万円近い値段がついているようだ。

また、私の持っている昭和61年再発行された秋田コミックス版では、「乞食」というセリフがすべて「物もらい」に変更されている。

「乞食」が、社会から完全に排除され、「ホームレス」という存在となっていく時代の変化の中、この傑作もまた忘れられていった。

しかし、先述したように、「銭っ子」はある種バブルとその崩壊、社会の構造的な変化を予見していたかのような作品でもある。

この機会に、この名作の復刻と、すべてを原作通りのセリフに復元する勇気ある出版社の登場を、漫画を文化として尊重しこよなく愛する一人として祈念する。

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