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葛城奈海の「やおよろずの森から」

葛城奈海 「国を愛すること ロシアとインドネシアに思う」

この夏、「国を愛すること」に関して印象に残ったいくつかのできごとをご紹介したい。 

★ロシアを訪問して

まず、8月上旬に10日間ほどロシアを訪問した。

私は長年、明治神宮の武道場至誠館(荒谷卓館長)で稽古を続けているが、毎夏、ロシアでは、至誠館に縁のあるロシア各地の道場の指導員・門人らが一堂に会しての講習会が開催されている(同様の講習会はヨーロッパでも毎年開催)。

今年は、モスクワから北西に約500km、寝台列車で一晩行ったところにある、スタラヤルッサという街に日露の大人・子供合わせて約100名が集結し、約1週間の合宿を行った。

合宿間は稽古主体の生活となるが、中日には稽古はなく、文化研修にあてられる。

復路でのモスクワ観光と合わせて、今回、モスクワ、ノブゴロド、スタラヤルッサという3つの都市を訪れた。

鮮烈に印象に残ったのは、どの街にも、国のために戦って亡くなった方々を慰霊する碑があり、そこに赤々と火が燃え続けていたこと。

24時間炎を絶やさないのは、英霊達を忘れないという意味が込められているという。

7年前に初めてノブゴロドを訪れた際、講習会主催者が炎の前で語った。

「歳月と共に人の記憶は薄れゆくものです。しかし、国のために戦って亡くなった方のことを忘れてしまったら、生きている意味がありません」。

その言葉に強烈なシンパシーを抱いたことを思い出す。


今回は、メドヴェーディ村という12世紀からの兵士の村にもご案内頂いた。

以下は、赤レンガの建築群が緑に映えるその村で聞いた日露交流史である。

日露戦争時代、この村には捕虜収容所があり、日本人捕虜約3000名が収容されていた。

所長の方針で、待遇が良く、ロシア人が鳩麦のスープを飲んでいたのに、日本人には米のスープを出したり、ロシアの黒パンは日本人の口に合わないということで、ふつうのパンを出したりしていた。

日本人は態度が良かったので、警備も緩く、村人とも自由に交流できた。

1軒のバーにも入れたが、そこで日本人が酔いつぶれたり、酔って喧嘩したりしているのをロシア人は見たことがなかった。

収容所内で日本人は木のおもちゃや楽器を作り、それらはコレクションとしてサンクトペテルブルグの博物館に保存されている。

当時のロシアにはない自転車に乗ったり、野球をしたりと、日本人の持ち込んだ文化は、ロシア人には目新しかった。

1905年、ポーツマス条約が結ばれ、日本人は帰国。

残念ながら、23名がそれまでに亡くなったが、ロシアの人々は彼らに敬意を表し、花火を上げ、葬式を行い、墓地を作った。

1908年、死者の遺骨が帰国する際には、日露の人々の行列が数kmにわたって続いたという。

かくも「国のために戦った英霊」たちへの尊崇の念は篤いのだ。

旧ソ連やロシアというと、好印象を持つ日本人はあまり多くないように思うが、国境を越え、このような心の交流があったこともぜひ世に知られてほしいと感じた。

 

お酒が入ると、ロシアの方は自然発生的によく歌を歌う。

彼らが好んで歌っていた歌で、そのメロディの美しさと、歌っているロシア人の心がひとつになっている感じが印象深かった曲がある。

聞けば、「国を愛する歌」だという。

帰国後に歌詞を送ってもらったところ、タイトルは「馬」。

日本でいうところの「ふるさと」のように祖国の美しい自然の情景が歌われ、そこを馬と共に進みながら「ロシアよ、愛している」と国に呼びかける歌であった。

★インドネシア独立記念日

8月17日は、インドネシアの独立記念日だ。

この日、防衛省内でスディルマン将軍像献花式(藤井厳喜実行委員会代表)が、小野寺防衛大臣、アリフィン・タスリフ駐日インドネシア特命全権大使列席の下、挙行された。

読者のみなさんは、スディルマン将軍をご存知だろうか?

日本軍政時代、日本軍の軍事訓練を受けてPETA(郷土防衛義勇軍)大団長(大隊長)を務め、インドネシア独立戦争を戦い、初代国軍司令官となった英雄だ。

34歳という若さで没したにもかかわらず、その名は、ジャカルタをはじめインドネシア主要都市の最も賑う通りの名前につけられ、大学名にもなるなど、今なお国民の尊敬を集めている。

昨年7月、インドネシアを訪れた私は、独立戦争を戦った英雄達が眠るカリバタ墓地と、PETA博物館を尋ねた。

インドネシアには、戦後も約2000名の日本兵が残り、インドネシア人とともに独立戦争を戦った。

カリバタ墓地に入るには、慰霊塔に向かって必ず全員が敬礼する。

広大な墓地は手入れが行き届いており、そこには多くの日本兵も眠っていた。

PETA博物館で、「スディルマン将軍像が日本の防衛省に寄贈された」という新聞記事を見つけ、私は初めてその事実を知った。

以来、この像を訪ねたいと念願していたが、本夏の献花式で、それが叶った。

将軍像は、防衛省の西の端、市ヶ谷記念館脇の緑地に、力強く立っていた。

ジリジリと肌を焼く陽射しの下、約130名の参列者が所狭しとその像の前に並んだ。

ご存知のように、市ヶ谷記念館は、東京裁判が行われた大講堂など、旧1号館の象徴的な部屋だけを移設・復元した建物だ。

同館は、防衛省に事前予約すれば「市ヶ谷台ツアー」の一環として見学できる。

が、そのすぐ隣にあるにもかかわらず、残念ながら、スディルマン将軍像はツアーコースに入っていない。

従って、一般人が、この像を見たいと思っても、おいそれとは見ることができない。

私はそもそも、この市ヶ谷記念館自体を防衛省の敷地から独立させ、もっと自由に見学できるようにすることを望んでいるが、その暁には将軍像もセットでぜひ公開してほしい。

が、当座の対応として、せめて市ヶ谷台ツアーのコースにスディルマン将軍像を入れることを切望する。

この日の献花式後には、憲政記念館で映画『ムルデカ17805』(藤由紀夫監督)の上映・勉強会が行われた。

インドネシア独立戦争に携わった日本兵を描いた作品で、「ムルデカ」は独立を、「17805」は皇紀2605年8月17日を意味している。

公開は2001年。

典型的な戦後教育を受け、日本はアジアの国々にひどいことばかりしてきたと思い込んでいた私は、この映画で目を啓かれた。

戦後も帰国することなく、インドネシア独立のためにインドネシア人とともに戦い続けた日本人がいた。

その事実を知って心を揺さぶられ、自国の歴史に初めて誇りを持てた。

その作品を改めて200名以上の参加者とともに見られることは感慨深かったし、上映後に、元自衛官の佐藤和夫氏が「主人公の島崎中尉は、(アジアを解放するという)天皇陛下の大御心を体して、インドネシアに残ったのではないか」と話されたことが、深く心に残った。

日本を骨抜きにするため、戦後の価値観を根底から崩す大本となった東京裁判。

その裁判が行われた市ヶ谷記念館を睥睨する如くスディルマン将軍像が立っていることは、皮肉でもあり、同時に痛快でもあった。

 

かくのごとく、ロシアでもインドネシアでも、「国のために戦って亡くなった方々」への尊崇の念は篤かった。

「国を愛すること」「国のために戦って亡くなった方に感謝と畏敬の念を捧げること」が「政治的に偏ったこと」などと見られる奇妙な国は、日本ぐらいのものであろう。

しかし、国内だけにいては、その異常さに気付くことは難しい。

今回のロシアには、10数名の中高生・大学生門人も帯同した。

感性の柔らかな若いうちに、「世界の常識」に触れることは、その後の人生・ものの見方にも大きな影響を与えるであろう。

今回の訪ロが彼らに日本を客観的に見る視点を与え、素直な愛国心を育み、各々の国と文化を尊重し合いながら世界の和を実現していく一助になったとしたら、うれしく思う。

(平成30年8月29日)

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