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「文人論客 壺中之天」

とんかつ椿

月刊「正論」2019年9月号より掲載

自転車でふらりと
酒に合う軽やかロース

 成城の静かな住宅街に「とんかつ椿」はある。のれんをくぐると、大きめのテーブル席とカウンター。
メニューはロースとヒレだけと潔い。東宝撮影所からほど近く、出演者やスタッフが足繁く通う。その中に特撮の神、円谷英二の姿もあった。
 円谷が入ると、撮影現場の雰囲気が一変する。大戦中に公開された「ハワイ・マレー沖海戦」での真珠湾のセットの見事さに戦後、米軍関係者が「どこからオアフ島を撮影したのか」と質問した。寒天で作った海、壊れやすいウェハースのビル、すぐに溶けるチョコレートの戦車……。円谷の特撮に二番煎じは許されなかった。世間の名声にもかかわらず、昭和八年の米映画「キングコング」のフィルムを常に持ち歩き、一コマ一コマを研究した。
 リアルを追求するあまりに時を忘れ、真夜中の親父さんと呼ばれる。撮影の合間、ふらりと自転車で店に現れ、「ロースと酒ね」と言った。
「映画カメラマンの父が仕事の片手間に始めた店ですよ」と主人の渡辺一朗さんは言う。昭和三十八年、仲間の大道具が建てた店が始まりだ。京都の撮影所にも通っていた先代が目を付けたのが当時、東京では珍しかった赤だしの味噌汁と、玄米茶だった。

(数多くの映画人と交流した渡辺一朗さん)


 円谷がいつも注文していた「ロースカツセット」(二千三百二十円)をいただくことにする。自家製パン粉のサクッとした衣の食感、肉の甘みがいい。とんかつは口に残る脂で質がわかる。三、四日寝かせた肉の脂とじっくりと揚げるラードが肉のうまさを際立たせている。ビールでなくとも、円谷が好んだ日本酒にも合うに違いない。そんな軽やかなとんかつである。

(粗めのパン粉と厚めに切られたロースカツ)


 リハーサルができない特撮は一発勝負だ。スタッフの動きが合わないと想定した映像にはならない。早く爆発する、閃光が遅い、失敗すると撮り直しになる。その分、完成したときの喜びも大きい。椿は打ち上げにも利用され、スタッフ全員で祝った。店には日本酒専用の保管所もあり、酒には自信がある。
 多忙と深酒がたたり、円谷はついに体調を崩す。打ち上げでもコップの水にスポイトで酒を垂らして飲むが、我慢できず「椿に行こう」と言い出した。渡辺さんが「大丈夫ですか」と言っても、「女房に黙っていれば構わん」と言い放つ。
 撮影所に敷き詰めたジオラマのビルや発電所を壊し、山中を逃げ惑うエキストラをヘリコプターで撮影、膨大な量のフィルムを回した。「ゴジラシリーズ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」と撮影するたびに制作費がかさみ、円谷プロダクションの経営は悪化、累積債務は数億円に達した。
 それでも円谷は手作りの特撮にこだわった。「映画は嫌いな人は見に来なければいい。でもテレビは子どもたちが嫌でも見てしまう」。気持ち悪い怪獣は出すな、残虐な演出はするな、が口癖だった。CGにはない特撮が持つでこぼこした手触り感。そこには円谷の生来、持っている人間味が表現されている。

 (円谷 英二)

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著者略歴

  1. 将口泰浩

    昭和38(1963)年、福岡県生まれ。明治大学卒業。産経新聞記者を経て、フリーのジャーナリストに。著書に『「冒険ダン吉」になった男 森 小弁』(産経新聞出版)など多数。

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