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「文人論客 壺中之天」

千駄木 稲毛屋

月刊「正論」2019年11月号より掲載

貧乏は味わうもんですな
 ささやかな贅沢を楽しむ

 千駄木の不忍通り沿いに「稲毛屋」はある。うなぎと日本酒の名店として知られ、舌が肥えた飲んべえが集う。近くの動坂に居を構えていた生粋の酒飲みである古今亭志ん生も常連であった。
 一カ月のつもりで慰問に行った満州で終戦を迎える。ソ連軍侵略で生死の境をさまよい、帰国したのは昭和二十二年一月。一年八カ月も彼の地にとどめ置かれた。命からがら引き揚げたとき、自宅に電報を打った。
――二七ヒカエル、サケタノム
 酔っ払って高座を休むことは幾度もあった。酔ったまま高座に上がり、お辞儀をしたまま寝てしまうこともあった。
 志ん生は店を訪れると、軽いつまみで酒をたしなんだ後、締めに頼むのが親子丼だった。あるとき、店員に頼んだ。
「ちょっと、ここに玉を落としてくれ」
 その一言がいまでもメニューにある「山梨産紅ふじ鶏の親子丼卵のせ」(一千五百円)となった。通常の「親子重」(一千四百円)もある。うなぎのメニューも豊富で、蒸した関東風と蒸さない関西風を選べ、肝やヒレなどの鰻串メニューは二百九十円から用意している。
調理風景親子丼

(鶏肉と卵、椎茸、タケノコだけのシンプルな親子丼)

 小上がりの席で待っていると、特製の親子丼が登場する。たっぷりと刻み海苔がかけられた親子丼の上にぷりんとした黄身が鎮座している。ちょっと豪勢な気分がする。
 口に入れると、水で戻した干し椎茸のうまみが溢れる。他には具はタケノコしかないが、なんともいえず濃厚な味である。
「うちのはタマネギが入っていないんですよ。あれはおそば屋さんのものでしょう」と女将の当間よし子さんは話す。
 昭和二年、谷中でお屋敷に配達する鶏肉の御用聞きから始まった店である。シンプルに鶏肉と卵の良さで直球勝負する。
 お吸い物も椎茸の出汁がきき、うまい。丼の端から少しずつ食べ、黄身を崩すと味が変わる。女将お手製のお新香も箸休めにちょうどいい。一口一口を味わうよりも、ガーっとかきこみたくなる親子丼である。


 酒とともに志ん生に貧乏話は欠かせない。
――人間てえものは、ほんとうの貧乏を味わったものでなけりゃ、ほんとうの喜びも、おもしろさも、人のなさけもわかるもんじゃねえと思うんですよ。
 家賃がただという理由でナメクジが出る本所業平の「なめくじ長屋」に暮らし、借金取りから逃れるために芸名を十六回も変えた。長男誕生の折には産婆に払う金もなく、尾頭付き鯛の代わりに鯛焼きを買って祝った。
 確かに戦前は困窮したが、引き揚げ後に芸が評価され、稲毛屋に通う頃は貧乏とは無縁だった。
 それでも自分を語るとき、「あたしはこの世に貧乏をするために生まれてきたようなもんで」と言った。貧乏を売りにすることが庶民の心をとらえることを知っていた。
 上にのった黄身は志ん生のささやかな贅沢だ。「貧乏はするもんじゃありません。味わうもんですな」。この名台詞を堪能できる親子丼である。

志ん生

(古今亭志ん生)

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著者略歴

  1. 将口泰浩

    昭和38(1963)年、福岡県生まれ。明治大学卒業。産経新聞記者を経て、フリーのジャーナリストに。著書に『「冒険ダン吉」になった男 森 小弁』(産経新聞出版)など多数。

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