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「文人論客 壺中之天」

大船  蕎麦處 浅野屋

月刊「正論」2020年3月号より掲載

松竹の街にいまも残る 
 映画人を支えた ちびそば

 町工場の騒音のため、松竹撮影所が蒲田から大船の競馬場跡地に移転されたのは昭和十一年だった。同じ頃、蕎麦處「浅野屋」も蒲田から店を移す。「撮影所を追っかけてきたってよく言われましたよ」と二代目女将の南部たま江さんは話す。
 松竹の食券は社員食堂だけでなく近隣の店でも使用でき、所属監督の判が押されていた。和食「松尾食堂」は幹部御用達、浅野屋は裏方さんと棲み分け、現在でも残る中華「でぶそば」に対し、浅野屋は「ちびそば」と呼ばれた。「みんな口が悪くってね。先代の父が小さいからって今日はちびそばにするかって言うの。俺は神田で修行したんだぞって、いつも怒っていました」
 この地から小津安二郎や木下恵介、山田洋次らが名作を世に送り出す。テレビ関係は午後六時ごろにそばの出前が多く、山田組などの映画関係は午後十時にカツ丼八十人前などの大量注文が入る。あるとき先代がバイクで撮影所内の溝に落ち、下げに行った丼百枚を割ったこともあった。平成十二年六月の撮影所閉鎖まで浅野屋はスタッフの胃袋を満たす。
 子供の頃から店に手伝いに出ていた女将は多くの映画人が食べる姿を見ている。笠智衆は肉南蛮そば、倍賞千恵子は天ざる、西田敏行は天丼とざるそばと決まっていた。
 三國連太郎は入り口近くの席に座って、いつも鴨南蛮そば(一千四百円)を注文した。同じ席でいただくことにする。白く艶やかなそばの上に鴨肉が六枚載っている。つゆをすすると、そばに負けずにすっきりとした上品なうまみと鴨の甘みが広がる。鴨肉も柔らかくてうまい。「そば粉も鰹節も鴨も先代の頃と変わらず、一番いいものを仕入れているからおいしいでしょう」と女将が自信たっぷりに言う。その通りです。久しぶりにいいそばを食べた気がする。

上品なうまみが広がる鴨南蛮そば

(上品なうまみが広がる鴨南蛮そば)

 一番人気は天ざる(二千五百五十円)だ。大きな車海老を丁寧に開いてから揚げるのが浅野屋流である。「天ぷらはそば屋で一番のごちそうだから大きくしているの」
 三國はいつも夫人と一緒に店を訪れ、仕事の話をしながらそばを食べた。「寡黙で近寄りがたく、こちらから話しかけられるような雰囲気はまったくありませんよ」と当時を振り返る。
 昭和二十六年のデビュー作「善魔」以来、木下恵介の映画に立て続けに出演し木下組とされていた。しかし翌年、木下のライバルだった渋谷実の「本日休診」に出たことで、松竹内での立場がぎくしゃくする。嫌気が差した三國は東宝に出演し松竹を懲戒解雇される。この頃から自由奔放な役者ばかのイメージが先行する。
「異母兄弟」では三十四歳の三國が十四歳上の田中絹代の相手として、壮年から老年までを演じ、麻酔をかけず上の前歯を全部抜き、老醜をさらす軍人になりきった。初めてその姿を見た田中はただ「あらあ」とだけ言った。
 狂気をにじませ、さまざまな役を演じる三國の本当の姿はどこにあるのか。週刊誌の記事がある。「伝説に包まれた役者である。噂を拾ってみると、すべての点で意見が正反対の極に分かれ、いったいどれが真実なのか、分からなくなってしまう」

三國連太郎(三國連太郎)
 晩年は「釣りバカ日誌」のスーさんの印象が強い。「長くやっていると自分の意思にかかわらず、愛される人を演じ始める。役者は死ぬそのときまで唾棄されるべき人物を演じていかないと進歩がない」。スーさん役は危険だと自戒した。
 平成二十五年、別れの会の参列者代表は西田敏行だった。「愛すべきスーさんを演じました。演じ切りました。その間、私が知る限り一度も佐藤政雄(本名)が姿を現したことはない」
 役に憑依するかのように演じる役者ばかである三國連太郎が誕生した街にいまも残る浅野屋。暖簾をくぐると、大きな絵が目に飛び込んでくる。ツケ払いの形に大道具係からもらった。大船撮影所の全景が描かれている。うちの宝物です。女将が言った。

大道具係からもらった松竹撮影所の絵。

(大道具係からもらった松竹撮影所の絵。松竹本社から譲ってほしいと言われたこともある)

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著者略歴

  1. 将口泰浩

    昭和38年、福岡県生まれ。明治大学卒業。産経新聞記者を経て、フリーのジャーナリストに。著書に『「冒険ダン吉」になった男 森 小弁』(産経新聞出版)など多数。

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