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山田吉彦の「海流真相」

日本のパンデミック対策の歴史

外国から侵入してくる感染症の蔓延防止には、外交と安全保障の密接な連携が不可欠である。パンデミック対策は、国家の安全保障そのものであり、ナショナリズムとグローバリズムの重複部分に発生する問題点を如何に克服するかにかかっている。新型コロナウイルスの世界における蔓延状況を見ると、わが国の採った対策は今のところ効果的であったと言えよう。敢えて言うならば、もう少し早く中国全土、韓国からの入国制限に踏み切れたならば、被害は最小限に抑えられたであろう。

我が国におけるパンデミック対策の歴史は、19世紀初頭、コレラ=虎列刺との戦いから記録されている。1817年、コレラがカルカッタを発信源としてパンデミックを引き起こし、1823年までの間、世界中を恐怖に落とし入れた。日本には、1822年、朝鮮半島から対馬経由で持ち込まれたといわれ(オランダ船が長崎にもたらした、あるいは、清国船が琉球にもたらしたとの説もあり)、西日本に多くの感染者、死者を出した。しかし、この時の江戸には流行せず、実質的な首都機能は守られた。その原因は、箱根関所の存在であったといわれている。

1600年、関ケ原の戦いに勝った徳川家康によって開かれた江戸幕府は、江戸の玄関口である箱根に関所を置き、人の往来を制限した。関所で特に警戒されたのは「入り鉄砲出おんな」といわれ、武器を持った人間の江戸への侵入と江戸屋敷に人質としている大名の妻女の江戸脱失を防ぐための安全保障上の戦略であった。この安全保障戦略が、疫病の蔓延から大都市・江戸を守ったのだ。

次に我が国においてコレラが蔓延したのは、1858年のことだ。香港から長崎に来航した船の中にコレラ感染者がいたため、国内に伝搬した。太平の世も250年も続くと江戸幕府の政治機能が弱体化し、住民の移動制限政策が甘くなっていたため、コレラは箱根を越え江戸でも流行し、多くの死者を出したのだ。

さらに1877年には、清国の厦門を出港し長崎に来航した船により再びコレラがもたらされ、西南戦争により混乱していた南九州に蔓延し、戦後、帰還兵により全国に伝搬した。ことの重大さを懸念した明治政府は、海外からの感染症の流入に歯止めをかけようと、諸外国の外交官や医師などと協議し検疫規則を策定したが、在日イギリス公使のハリー・パークスは、治外法権により日本の検疫規則に従う必要がないと主張した。また、翌年にも清国からコレラが伝わり、西日本に大流行を引き起こした。そこで政府は、停船命令も含む検疫規則の強化案を作成した。これを各国に打診したところ、米国、清国、イタリアは同意したものの、ドイツ、イギリス、フランスは、受け入れを拒んだ。

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