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さようなら C・W・ニコルさん【追悼】

【訃報】作家で環境保全活動家としても知られるC・W・ニコルさんが3日、直腸がんのため死去されました。「正論」では3月21日にニコルさんとジャーナリストの井上和彦さんらによる「大東亜戦争を語り継ぐ会」を開催する予定でしたが、残念ながら武漢コロナウイルスの感染拡大によって延期を余儀なくされました。7月に実施する予定で、ニコルさんは出演に強い意欲を示されていました。心よりご冥福をお祈りします。

ニコルさんは平成29年の月刊「正論」9月号で井上さんと対談しています。対談の一部を再掲します。

井上氏 本日は作家のC・W・ニコルさんをお迎え致しました。ニコルさんといえば、何といっても長野県の黒姫高原近くの「アファンの森」で地道に森づくりを続けられていることで知られていますが、実は英国と日本との交流史、とりわけ両国の海軍への造詣が深いことでも有名です。

第一次世界大戦における日本海軍の地中海での活躍ぶりを私は拙著「日本が戦ってくれて感謝しています」で紹介しました。ですが、この話は実はニコルさんとの出会いから始まったものでした。第一次世界大戦下、日英同盟に基づいて日本海軍は英国をはじめ連合国の船団護衛のために地中海に派遣され、マルタを拠点に大活躍し、その時の日本海軍戦没者墓地がいまもマルタにあります。その事実を知り、マルタへ行くきっかけを作ってくださったのがニコルさんの「井上さん、ぜひマルタへ行ってください。あなたがマルタへ行かなかったら誰が行くというのですか?」という慫慂でした。

このことをいまもたいへん感謝しています。そこで今日は、ニコルさんに日本人にあまり知られていない日英海軍の交流秘話をたっぷりお話しいただきたいと思っていますが、まずは代々海軍の家系であるニコル家についてご紹介いただけますでしょうか。

ニコル氏 本日はお招きいただきありがとうございます。私の話を大切に胸に刻んでくれていたことに感謝致します。
私の家族の話から、ということですが、実は私の手元に第一次世界大戦が始まって一カ月後に撮影された、私の母方の祖父の家族写真があるんです。みると、全部で五人が英国海軍の軍人なんですね。私の父だけは第二次世界大戦でインド洋に出向いて日本軍と戦っているのですが、ニコル家は英国海軍と実に縁が深く日本への印象が良かった。さきほど井上さんから第一次世界大戦のときの日本海軍のお話がありましたが、ドイツ海軍の潜水艦Uボートの魚雷によって私の祖父の弟が亡くなっています。地中海が「Uボートの池」と恐れられていた時代です。それほど恐れられていた「海の安全」を守ってくれたのは日本海軍でした。

私が日本を初めて訪れたのは二十二歳の時で、空手を学ぶのが目的でした。二年半で黒帯を取得してカナダ政府の水産調査局の北極水産研究所に戻り、そこでカナダの東海岸で行われる調査捕鯨に携わることになりました。調査対象だった鯨のデータを取った経験がなかった私は西海岸にいた日本の大洋漁業、マルハの船に乗り込んで、そこでいろいろなスキルを教えてもらったんです。もともと日本語が少しできたし、日本の食べ物もすごく好きでしたからそこでとても私はかわいがられたんですね。ノウハウを得た私はそれで調査捕鯨に従事することができたのです。その後、日本の捕鯨は猛烈なバッシングにあい誤解やプロパガンダに晒されてしまいます。そこで私はカナダ政府の仕事を辞め、捕鯨発祥の地である和歌山県太地町に行くことを決心します。日本の捕鯨が間違っておらず、シーマンシップも抜群に高いことを誰かが世の中に示していく必要があると思ったからでした。

太地での暮らしから生まれた作品が『勇魚』でした。これは鯨取りの猟師が海での遭難からカナダに渡るという作品ですが、ここで描いたのは海に生きる男たちの見事なシーマンシップでした。シーマンシップといえば実は第二次大戦後の日本ではGHQのマッカーサー最高司令官が「日本人にタンパク質が必要」だとして捕鯨を命じたことがありました。ところが当時の日本の船は戦争の痛手でほとんどが使い物にならなかった。それで辛うじて残った潜水艦のエンジンをキャッチャーボートに積んで南極に捕鯨に出かけたそうで、戦後の捕鯨を支えたのは海軍の生き残りたちだったんです。彼らのシーマンシップによって戦後の日本人の食生活が支えられたんですね。

日本での生活が長くなるにつれて私は次第に日本国籍を取りたいと考えるようになりました。私にとっての気がかりは父が日本海軍と戦ったことでした。ただ先ほど家族の話をしたように父の代は日英関係は必ずしも良好ではなかったけれども、祖父の代には日本海軍と英国海軍、日英関係が本来はすごく仲が良かったことを皮膚感覚で知っていたことは幸いでした。祖父は絶対に日本の悪口を言わない人でした。
 そこで私は「勇魚」の続編として日露戦争時代の日本海軍を描いた「盟約」を書きました。鯨取りの血をひく青年、三郎が生まれ育ったカナダを出て祖国日本をめざし海軍に身を投じる話で、日英の絆の強さもここで描きました。「遭敵海域」では第一次大戦でのUボート駆逐作戦を取り上げ、マルタに眠る誇り高き日本海軍の軍人の姿を描いたのが「特務艦隊」でした。捕鯨から日本海軍へとテーマを移したかのように見える読者もいたかもしれませんが、私にとっては私の人生のさまざまな場面で日本と日本海軍が何らかの関わりがあった。捕鯨も海軍も同じ海の男で、どちらも私にとってかけがえのない存在でしたから、それをひとつのシリーズとして描いたのです。

私は小説を書くことを通じて、人の人生、互いの理解を深めるような小説を書きたいと常々心がけてきました。憎しみを植え付け、駆り立てるような小説には興味がないのです。私自身が日本が好きで日本人のクジラ捕りと仲良くなって、そして今、日本国籍を取得しているのです。そんな私にとってどの小説も全部私とつながった大切な作品です。

井上氏 ありがとうございます。では、第一次世界大戦において地中海に派遣された日本海軍の第二特務艦隊の話をうかがいたいと思います。そうそう、十年ほど前にニコルさんからいただいた桜の押し花の額縁は今でも自宅のリビングに飾っています。私は、それを見るたびにニコルさんの話を思い出していますよ。

ニコル氏 ありがとうございます。第一次世界大戦は一九一四年に始まるのですが、Uボートがイギリスにとって大変な脅威だったことはすでに述べました。戦列艦「HMSアブーキア」が魚雷の被害を受けたときも巡洋艦「HMSクレッシー」や防護巡洋艦「HMSホーク」などが救助に駆けつけるのですが、その救助中にまたUボートにやられてしまうんです。そこで英国海軍は被害の拡大を避けるためにUボートに船が沈められても「助けには行くな」と命令を出したほどの衝撃だったのです。

井上氏 当時、地中海では英国だけで九十六隻の船舶を沈められているんですよね。でもそれにご親族が乗っておられたとは…。

ニコル氏 はい。水は冷たく海に放り出されると助からないんですよ。それにあの当時はライフジャケットやライフボートなどは全然足りてなかったですしね。そうした危険な海を日本の特務艦隊が護衛し、七十五万人の兵隊を無事に守るわけです。貨物船だと七百六十七隻。このうち六百二十三隻が英国の船でした。小さな艦隊でしたが日本が果たした役割は大きく私は戦争の結果を変えたとさえ思っています。

特筆すべきは日本海軍の駆逐艦「松」と「榊」でした。護衛した大型客船「トランシルヴァニア」が魚雷にやられてしまうのですが、沈み始めた「トランシルヴァニア」から「松」はロープなどを使って八百人を救助するのです。そこに魚雷が再び命中します。ライフボートには四十人が乗っていましたが爆発で人間の体がばらばらに吹き飛ばされてしまいます。そんな状況下でも「松」と「榊」の乗員による命がけの救助活動によって結局、二千九百六十四人もの兵隊の命を助け、六十六人の看護婦ら女性や三十六人のクルーを助けたのです。ここで私が強調したいのは日本海軍の行動は英国海軍の命令を無視して行われたことだったんです。

井上氏 こうした献身的な救助活動をつづけた日本海軍の第二特務艦隊は最終的に地中海で洋上から七千人もの人々を救助し、七十万人を超える連合国の兵士らを無事に目的地に送り届けたことを考えると、確かにニコルさんが言われるように、日本海軍の船団護衛任務は大陸での戦局を変えるほどの活躍だったといえますね。

ニコル氏 そう、さきのトランシルヴァニア号の救助では、「榊」と「松」が三千人近くを助けた報が英国に届くと、国会では「日本の艦隊は地中海で戦っている!」と称賛され、英国の国会議員によって日本語で万歳三唱が起こったほどでした。

 

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